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日中友好協会の会報誌における12回目(最終回)の連載が刊行されました。

連載記事<12回目>

日本とのゆかり 

約1万年前の世界最古の栽培稲の炭化米や最古の彩陶などが展示された中国浙江省の上山文化の考古学特別展が、昨年11月から北京の中国国家博物館で行われました。近年この上山文化が世界から注目されており、稲作の歴史が1万年前にさかのぼり、紹興が位置する浙江省などの江南地方、すなわち長江下流地域が稲作発祥の地であることが分かりました。

関連遺跡から出土した陶器の残留物にカビや酵母も見つかっています。ただ現段階では、中国で麹を使ってお酒を造る技術は約4000年前の夏王朝の時代に発明されたと言われています。その後殷の時代を経て、約3000年前からの周王朝が衰え始め、戦乱の続く春秋・戦国時代、当時の江南地方の住民が何回にもわたり大挙して黒潮にのった海のルートで日本に逃げてきたと言われています。

日本では、縄文時代から弥生時代に当たりますが、その渡来してきた人々は水耕稲作とともに、農耕儀礼の酒として米から造る酒の原始的技法も日本にもたらしたとされます。堀江修二氏や花井四郎氏などの研究によると、約2500年前の越王勾践の物語にも出てくる醪酒(もろみざけ)は主に黄コウジカビの生えた米麹を使っていました。日本の気候風土に合ったこの酒造技術がその後独自の進化を遂げ、古墳時代ごろまでに日本酒の原型が出来上がります。一方、故地の江南地方では原始の米麹を使う酒造りが下地となり、黄河流域に興った麦麹を使う小麦文化と融合し、紹興酒を典型とする黄酒を民族の酒として作り上げたと言われています。

また、3世紀末の中国の史書『魏志倭人伝』に「人性酒を嗜む」とあり、当時日本人はよく酒を飲んでいたと思われます。

宋の時代の1117年に浙江省で完成した酒造りの技術書「北山酒経」に壜詰めの酒を甑(こしき)で酒が煮え立つ程度まで加熱すると記載があり、即ち熱殺菌もされていました。14世紀末より16世紀、日本では当時の知識人であった僧侶が酒造りを行っており、清酒の段仕込法や火入れなどの技術には「北山酒経」の影響が反映されています。フランスの微生物学者パスツールが、ワインが腐敗するのを防ぐため、加熱殺菌法を実用化したのは1860年代、中国と日本よりずっと後でした。

明治時代になると、日本では西欧の化学・微生物学が導入されて世界をリードするまで発展し、1904年には国立醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)が設立されました。同年日本の発酵微生物学の開拓者と言われる東京帝国大学出身の斎藤賢道教授は「紹興酒麹菌に就いて」の研究をなされ、また1907年には在杭州帝国領事館から「清国紹興酒に関する調査」との報告が出ています。そこには「紹興酒は・・・清国各酒中の白眉として・・・猶我が丹醸の全国に声価高きが如し」とあります。紹興酒は1910年代国内外で金賞を受賞し、生産量も増加し、中国で広く飲まれていました。

その後同じ東大出身の山崎百治氏は、1914年中国における発酵化学の研究を志し、上海へ。東亜同文書院の教授となって、上海で紹興酒の研究に没頭されること10数年。自身も紹興酒が大好きで、「紹興酒博士」というあだ名は業界及び学界に響き渡ったと伝えられています。1932年、満州で敷地五千坪の「満州造酒株式会社」という紹興酒を造る工場も設立されました。山崎博士の特許法による独特な改良を加えた商品を売り出し、紹興酒醸造界を吃驚仰天させたといいます。1938年、南中国より本場の紹興酒の日本への輸出禁止により、満州産のこの紹興酒は約20万斤日本に輸出され、主要都市の中国料理店で消費されていたそうです。

第2次世界大戦後の1948年、「満州造酒」に携わった技術者が帰国し、埼玉県深谷市櫛引で永昌源の前身「櫛引酒造」を設立しました。その後、1950年に王子製紙の資本参加を受け、社名を関東酒造に変更、1953年に老酒の製造販売を開始しました(1958年現在の永昌源に社名変更)。中国との国交の無い時代、日本ではこの永昌源老酒に加えて、台湾産の紹興酒も多く流通していました。

1972年日中国交正常化した後は、大手企業として宝酒造が総代理店として「塔牌」ブランドを輸入販売を始めました。一方、古越龍山ブランドは前身の紹興市醸酒総公司が1990年に独自に輸出を開始、メルシャンが総代理店となり、対日輸出を始めました。 その後永昌源(2002年)メルシャン(2008年)がキリングループに入ったことを機に、古越龍山の販売権が永昌源に移管され、現在に至っています。

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