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日中友好協会の会報誌における6回目の連載が刊行されました。

連載記事<6回目>

紹興酒の歴史と文化

「古い文明は必ず美酒を持つ」と、日本で「酒の神様」と敬われる故・坂口謹一郎東京大学名誉教授が言うように、中国の文明は酒の文明でもあります。中国で、紹興酒を含む穀物醸造酒を「黄酒」(ホワンチュウ)と言われ、ワインとビールと並んで世界三大古酒と数えられます。

2005年中国考古学10大発見のトップとして話題になったのは紹興で出土された9000年ほど前の小黄山遺跡。酒器とみられる陶器が見つかったので、紹興酒の歴史は9000年前に遡れると考えられて、「天下の黄酒のルーツは紹興にあり」と言われる故です。今回は長い歴史の中で、紹興酒を巡る話をいくつご紹介します。

▽酒の発明

約4000年前、治水に成功し、稲作を広げたとされる夏王朝の創始者である禹王は会稽(紹興の旧称)に諸侯を集めその功績をたたえたと伝えられています。自然発生的な酒はその前にもありましたが、麹を使って人工的に醸造を始めたのは「儀狄造酒説」と「杜康造酒説」があります。禹王時代の酒造りを司る儀狄(ぎてき)がお酒を発明し、五代目国王の杜康(とこう)が酒を改良したと「史記」に書かれています。「何を以(もっ)てか憂いを解かん、唯(た)だ杜康(とこう)有るのみ」と、「三国志」に出てくる曹操が詩を詠みました。杜康は日本の「杜氏(とうじ)」の語源との説もあります。

▽投醪労師

約2500年前の越王勾践の時代は、紹興酒が広く使われていたことが中国の古典『呂氏春秋』(百科全書的史論書)などで分かります。勾践は名将范蠡の意見を受け入れ、「生丈夫、二壷酒、一犬;生女子、二壷酒、一豚」と、酒と犬、豚の出産奨励策を打ち出しました。紹興酒は栄養価が高く、産後の栄養補給の役割もあったといわれています。

十年間をかけて人口増加・国力増強を図り、さらに十年間教育・訓練をする、いわゆる「十年生聚、十年教訓」の戦略を実施し、ついに呉を破り、「会稽の恥」を雪ぎました。出征する際は、民衆がお酒を持ってきましたが、兵士全員に飲ませるため、勾践が川の上流に流したという「投醪労師」の逸話を残しています。

▽曲水の宴

書聖王羲之は永和九年(353年)の旧暦三月三日(上巳節)、41名の友人と蘭亭において、「曲水の宴」を催し 、ほろ酔い気分で「天下一の行書」とされる代表作『蘭亭序」を書き上げました。その後は何度書き直してもこれを越える作品がないと、語り継がれています。

上巳節は「ひな祭り」の由来とされており、いまでも日本では京都の上賀茂神社をはじめ「曲水の宴」として毎年10カ所以上で風情ある和歌の宴として親しまれています。

▽北山酒経

約千年前の宋の時代、酒税は朝廷の重要な財源となります。北宋末年、戦災頻発、軍費急増。酒税を増やすため、酒の醸造販売を促しました。南宋になると、当時の都であった杭州が全国の政治経済文化の中心地となり、北部の麦作が江南地域で普及し、南北の醸造技術の交流も盛んになって、紹興酒に使う麹が米麹から麦麹に変わったとされます。黄河文明と長江文明が融合したのです。1117年に刊行された酒造技術書『北山酒経』に「酒母仕込み(菩提もと)」と「火入れ」などの技術が記載され、紹興酒の醸造技術が大きく進展しました。地名も越州から「年号」だった紹興に変わり、お酒の名前が紹興酒と称されるようになって、現在まで至っています。

▽越酒行天下

明清の時代になると、紹興酒が最盛期を迎えます。清王朝の康熙二十年(1681年)の《会稽県誌》に「越酒行天下」(紹興酒が全国に行き渡る)と記載されています。第六代皇帝乾隆帝が江南地方を巡幸したとき、紹興の酒造りが一番盛んな東浦で紹興酒を嗜み、「越酒行天下、東浦酒最佳」と揮毫したと伝えられています。

20世紀になると、紹興酒は船で全国に運ばれて、上海などを通じて海外にも輸出されるようになりました。1910年、南京において開催された中国史上初の全国規模の博覧会「南洋勧業会」で紹興酒が金賞を受賞し、その後1915年のアメリカパナマ太平洋万国博覧会で再び金賞を受賞しました。

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